思索の日々、音との生活。

大学図書館パートタイマー(2年目)の広くて浅い思索の日々、音との生活。

読書の記録。

大学に入った頃から、図書館で本を借りて読む機会が格段に増えた。田舎の本屋には無い良書が多く読めるのは便利だ。しかし、最近、弊害(というほどのものではないが)も感じる。

本屋で本を買って読む場合、自分の書棚に本が残る。読了して時間が経った本でも、書棚でその本を見かければ記憶が活性化されるし、流し読みや再読も自然に行える。

一方で、図書館で借りて読んだ本というのは、自分でどこかに記録を残しておかない限り、かたちに残らない。一度読んだことで自分の糧にはなっているとは思うが、時間が経てば細かい部分は忘れてしまうし、書名がわからなければ再読も難しくなる。

もちろん読書日記を付ければいいことはわかっているが、それも結構おっくうなものである。

いまどきの図書館は貸出のログなど残しているだろうから、自分のログだけ見られるようにしてくれると結構助かると思うのだがどうか。でも、大学在学時のログは卒業したら残ってないんだろうなあ・・・。

食文化の復興と惣菜屋。

スーパー、コンビニ、ファーストフードの浸透で、日本の食文化は危機を迎えている。
魚や野菜が人気ないのも、おいしい食材が手に入れにくくなっているからだと思う。コンビニやファーストフードのメシはどれもまずいし、スーパーに行っても、おいしそうな食材(特に魚)に出会いにくい。

むろん、卸や市場、そこまでいかなくとも、昔ながらの商店街の魚屋や八百屋にはそうした良質の食材があるだろう。しかし、たとえば一人暮らしの人間が、毎日、商店街に赴き、手の込んだ料理を自ら作る、というのはあまりにも理想に過ぎ、一般的でない。

であれば、惣菜屋が救世主となるのではないか。

地元の商店街などから、よい食材を仕入れ、栄養価を考え、舌を鍛えることを意識した惣菜を作る。品数を抑え、日によってメニューをローテーションすることで、過剰生産を抑え、栄養管理もしやすくなるはずだ。

客としても、ファーストフードやコンビニと同じ利便性を持ちながら、うまいものが食えて、栄養の心配もしなくてよい、となれば、結構人気が出そうな気がする。

こうした惣菜屋チェーンが実現すれば、日本の食文化レベルはあがり、健康にもなるのではないか、と素人は思う。

マスメディアも、高級食材を無駄に使った料理や、B級グルメばかり追いかけてちゃいかんですよ。

小沢氏党首辞職会見とその反応について。

久しぶりに政治関連の記事。

小沢氏が民主党首を辞した。
そのこと自体についてどうこう言うのは、自分の政治に対する関心の薄さを露呈することにしかならないと思うので、やめておく。

今回、気になったのは小沢氏のマスコミ批判とそれに対するマスコミの反応である。
今日(11/4)の記者会見で、小沢氏はかなり露骨にマスコミの報道姿勢に対して批判した。時間的にもかなりの部分をそれに当てていたし、質疑応答でも発言の端々に滲み出ていた。

しかし、それに対するマスコミの反応はどうだっただろう。
あれだけ、痛烈に批判されたなら、質疑応答で何らかの反応があるかと思ったが、関連した質問は何も出なかった。まあ、限られた質疑の時間で、他に訊くべき質問があったのは理解できる。

問題は、ネットでの報道である。
Googleニュースから7つくらいのニュースソースをチェックしたが、このマスコミ批判について触れられた記事を、遂に見つけられなかった(11/4 18時時点、全てのニュースソースを精査したわけではないが、普段は複数のニュースソースをチェックすることさえ少ない)。まだ、速報的な報道が多いとはいえ、あれだけの時間を割いて語られたことが、全く触れられていないというのはどうだ。

そもそも、私がこのニュースを知ったのは会見が終わってからである。TVでは相変わらず断片的な報道しかしていないので、会見を見ていた父から話を聞き、確認のためネットで情報を探したのだ。しかし、ネットでの報道ではマスコミ批判について全く触れられていないことに驚き、民主党ホームページからノーカットの記者会見映像()を見た次第である。もし、父から話を聞いていなかったら、ここまで調べることもなかっただろうから、マスコミ批判発言の存在自体気づかなかっただろう。

日頃、情報の信頼性に常に疑問を抱くよう心がけていたが、ここまで恣意的な報道が行われているのならば、正確な情報を得るのは本当に難しい。もはや、日常的には不可能と言ってもいい。

真にジャーナリズムの発現たる報道がなされるためには、どうすればいいのだろうか。今回、民主党のホームページでノーカットの会見映像を見られたように、ネットが一つの突破口になりうるとは思うのだが。

追記:翌日(11/5)の朝刊での報道状況

まずは、小沢氏に批判されなかった2紙。

 朝日新聞:マスコミ批判発言について触れず。
 日本経済新聞:5面に会見での発言を全文掲載。それ以外では触れず。

以下、それ以外。

 読売新聞:1面で強く批判・反論。
 毎日新聞:29面で否定的に報道。
 産経新聞:5面でやや否定的報道。

結構、違いが出てますね。日経の全文掲載はすばらしい姿勢だと思う。なお、掲載面は地方や版により異なる可能性があります。



追記:
「辞した」って書いたけど、戻ってきましたね。なんだかなあ。
辞職会見後の民主党の人たちの反応が的外れに思えたのは私だけか?


手軽にカラーマッチングを。

デジカメ、スキャナ、プリンタ、ディスプレイ。
イメージングデバイスは年々高性能化し、低価格化も著しい。
しかし、目立つスペック(解像度や画素数)の向上に隠れ、あまりにも基本的なところがないがしろにされていると思う。「カラーマッチング(デバイス間の色合わせ)」である。

これらのイメージングデバイスは、アナログの光情報とデジタルの光情報との変換を行う。その際に、様々な要因で、情報の変化が起こるために、これらのデバイス間で色を合わせるのは至難の業だ。

当然、プロの世界では、厳密なカラーマッチングシステム(CMS)がある。色の基準となるカラーペーパー、照明、ディスプレイの色を計るセンサ、高品質な機器やインク、紙などにより、高度なカラーマッチングを行うことができる。

しかし、これを一般のユーザに求めるのは酷な話だ。カラーペーパーもそこそこ高いし、照明はすぐに変化する、ディスプレイ用のセンサなんか手が出ない、紙はコピー用紙が基本だし、そして何よりめんどくさい・・・。

一般のユーザは、プロほどに高度なカラーマッチングを必要としていないだろう。「だいたい」でいいのだ。しかし、現在、ディスプレイで見た画像が「だいたい」でもプリンタで再現できる環境がどれだけあるのだろうか。すくなくとも私は一度もスキャナ入力、プリンタ出力で満足したことがない(カラーの場合)。自動補正などうんざりだ。

一応、低価格帯のデバイスでも、色調整はできる。しかし、プリンタの例を見てみても、CMYKのバランスとガンマ値、コントラストのバーがあるだけで、いじればいじるだけ変な色になるのがオチだ。ICMを利用してもいい結果が出た試しがない。我々は素人なのだ。

メーカは「こだわりたい素人」を満足させる手軽なCMSを開発すべきではないか(つーか、して!)。

まずは、ディスプレイの調整。
これはAdobeのガンマ調整でもそこそこいけるだろう。
まあ、照明の色温度などはユーザがどこまでこだわるか、に任せよう。

次に、スキャナ。
色見本を付属品として付けよう。
それをスキャンした画像を元に、色見本とディスプレイの表示との差異をウィザードでユーザに調整させる。

次に、プリンタ。
今度は色見本のデータを付けよう。
それをプリントし、ディスプレイの表示と印刷したものとの差異をウィザードでユーザーに調整させる。

最後に、デジカメ。
まあ、Photshop Elementsがありゃいいって話だけど、もっと直感的に色調整ができるといいな、と思います。
他のデバイスと違って、再現性より創造性重視のデバイスだと思うので、他のデバイスがしっかり調整されていれば今のままでも問題ないかと。

なんか、素人考えだと今にも実現できそうな気がするんだけど、どうなんでしょう。
特に状況のひどいディプレイ−プリンタ間のマッチングなんか、上記の方法で得た情報を元に色調整を行う仮想ドライバを作れば、汎用的でいいのになあ。
自分の技術力の無さが憎い。

文学のための教育。

先日、文学と感覚について考えた()時にも思ったことだが、文学は芸術として認識されている(よね?)のにも関わらず、音楽や美術とは異なる点が多い。今回は教育について考えよう。

音楽や美術の高等教育といえば芸術大学が思い浮かぶ。そこでの教育の多くは、実践家になるための教育である。音楽なら演奏者や作曲者、美術なら画家や彫刻家などを育てるわけだ。当然、音楽学や美学を学ぶ場合もあるが主流とはいえない。

一方で文学の高等教育といえば文学部・人文学部だろうか。しかし、こちらは実践家ではなく研究家となるための教育である。文学専攻の学生が文を書くための勉強をしているわけではないのだ。

高等教育でなくとも、同様の構図がある。小学校〜高校(普通科)では、美術(図工)や音楽の授業は実践を学ぶが、国語は読解が主体である。作文もしないではないが、特に高校に進むにつれ、機会は少なくなる。

こうした状況を生んだ要因として、2つ考えてみた。

一つは、作文技術の軽視である。

作文は、特殊な教育を受けなくとも、多くの人が日常的に行っている。
口語的な文章が市民権を得ていることもあり、「アイデアさえあれば書ける」と多くの人がなんとなく思っているのではなかろうか(実際、素人が書いたとしか思えない文章が世間にはたくさんある)。

しかし、小説でも、エッセイでも、論文でも、人に読ませられる(これは高い評価を受ける、という意味ではなく、「違和感なく」読ませられる、程度の意味)文章を作るのは難しい。これは独創性の問題ではなく、「技術」の問題であると考えられる。

読みやすい文章を作るための「技術」は確かに存在する。論文であれば、論理的な展開とそのための言葉使い、小説でも地の文の主体を統一するとか、起承転結の構成などは確実に伝達可能な技術であろう。しかし、こうした技術の伝達や理論化は、音楽・美術に比べ、貧弱に思える。

もう一つは、伝統的な師弟関係である。

音楽や美術では伝統的な師弟関係がある。〜流・〜派というのが多数あり(「〜」には人名が入る)、しっかりした師弟関係が伺える。音楽家や美術家の経歴にもよく「〜氏に師事」とよく書かれている。こうした師弟関係がそのまま芸術大学での教育に継承されていったことは想像に難くない。
一方で、文学においては(実はよく知らないのだが)、あまり師弟関係がないように見える。そのため、「文学を教える」ということが一般化していないのではなかろうか。

芸術実践家の育成を高等教育機関でやるべきか、という問題は置いておいても、文学の創作技術教育は貧弱だ。美術・音楽とともに、伝達可能な技術は教育にとりいれるべきだとおもうが、どうだろうか(そう、美術・音楽に関しても小〜高校(普通科)の教育は本当に貧弱だ。独創性うんぬん言う前に、基本的な技術や能力をつけるのは当然だと思うのだが・・・)。