最近よく思い浮かぶ言葉が2つ。
追いつめられた犯人もあの娘と同じように動機を作り替えることがあるんです・・・・
現実の辛さから逃れるため・・・・
自分を騙してあげるってコト・・・・・・・・
犯罪交渉の現場でも犯人が正直に心の内を語ってくれるとは限らない・・・・・・
でも人間の嘘の中にはもっと深い真実が隠されていることもある・・・・・・
記伊孝「犯罪交渉人 峰岸英太郎」2巻 講談社, 2002, pp.35-36.
昨今の(いや前からか)凶悪犯罪に対して、動機が短絡的だという批判がよくされるけど、加害者の語る動機をそのまま受け取って、それに対して脊髄反射的に反発するのはいかがなもんだろう。
決して加害者に同情するわけでなく(いやほんとにかなり憤りを感じてますよ)、根本的な原因(しばしば本人も気づいていない)を見つめないと、的はずれな予防策しか打てないんじゃないかと思ったわけで。
カントは道徳法則をつぎのようにあらわした。
「あなたの人格およびあらゆる他の者の人格における人間性を、常に同時に目的としてとり扱い、けっして単に手段としてのみとり扱わないように行為せよ」
平木幸二郎ほか「倫理」 東京書籍, 1998.2, pp.78-79.
(※高校の教科書。原典は「道徳形而上学」かと思われます。読んでないので孫引きで失礼。教科書ってISBNないんだなあ。)
高校の授業で習った時はよくわかんなかったけど、最近思い出してカントいいなーと思った。いまの日本に必要な意識だと思う。
今日のクローズアップ現代は「過熱するスピリチュアル・ブーム」だった。
乱暴に要約すると30〜40代のええ大人がオカルトに救いを求めているという内容だ。
科学リテラシー教育が浸透してないんだなあと思いつつも、なぜそうしたものに人気があるか考えてみる。
「スピリチュアル」の実態
占いだオーラだなんだと言っているが、そのサービス内容はカウンセリングに非常に近い。要は客の話を聞いてあげて、人格・行動を肯定し、その上で真っ当なアドバイスをするわけだ。(ホストやなんかもこの辺に近いんじゃなかろうか。知らんけど。)
そこで、ここでは、スピリチュアルなサービスのうちカウンセリングと呼べるものを「霊的カウンセリング」、臨床心理学・精神医学(この違いがよくわからないのだが)に基づくカウンセリングを「科学的カウンセリング」と呼んで、2つを比較しつつ考察する。
目的も手段も近い二つだが、霊的カウンセリングがすごいのは、その肯定の理由やアドバイスの根拠にオカルトが使えることにある。
「私は貴方の行動はよかったと思う」とか「これこれこういう理由で貴方は間違っていない」といわれても、「いやしかし」と自分で反論してしまうが、「このカードが貴方の行動が正しかったことを示している」とか「もうすぐ運気がよくなる」とかいわれれば、反論しようがないわけだ(そこですんなり受け入れられるかには個人差があると思うが)。
霊的カウンセリングの問題
ただ、そうしたものには、当然問題がある。悪徳とまではいかなくとも、値段設定は恣意的なものだし、当然、保険もきかない。サービス品質も玉石混淆だろう。
それに対し、精神科医によりカウンセリングはどうか。値段設定は厳密に規定されているし、保険もきく(はず)。サービス品質には当然差があるだろうが、国家資格により高い水準が確保されている(はず)。
科学的カウンセリングの問題
本来ならば、精神科医によるカウンセリングが適当な場合に、それを受けずに、霊的なカウンセリングに走ってしまっている。なぜか。
その理由として二点考える。
・精神科の敷居の高さ
精神科=精神異常者(まあ、この言葉も解釈の幅が広いのだが)のいくところ。というイメージが強く、敷居が高い。なじみがない。抵抗がある。少なくとも、ちょっとした悩みを聞いてもらったり、相談する相手、とはとらえていない人がほとんどだろう。
ちょっとした悩みでも気軽に話せる「かかりつけの精神科医」という存在が、誰にでもあれば、ずいぶん状況はよくなるんじゃないだろうか。
・インスタント性のなさ
これは、番組中、香山リカ氏が言及していたことだが、精神科医のカウンセリングには通常、時間がかかる。そもそもそんな簡単に解決できないことだから悩んでいるのであって、問題解決に時間がかかるのは当然だが、霊的カウンセリングでは(無根拠で受容するために)短時間での解決が可能となる場合がある。時間がかかって、自分で解決しなければならない科学的カウンセリングより、短時間で、人に解決してもらう霊的カウンセリングの方が人気なのは、当然なのかもしれない。こうした特徴を、科学的カウンセリングが部分的に取り入れる(方便として、霊的なものを説くなど)ことも考え得る。
(ちょっと、話がまとまらないので、また後日、修正・加筆します)
ここ数ヶ月、このブログのコメントにスパムがよく入る。
記事に関連性のある広告なら目くじらたてるほどの事ではないと思うが、全く関連性のない(しかも品のない)広告となると、怒るのを通り越してあきれてしまう。
いわゆるWeb2.0の世界は、不特定多数の善意によって成り立つ。ブログなら書き手の許可なくコメントやトラックバックを入れれるし、Wikiでも記事の追加・編集・削除までできる。
こうしたシステムは悪用しようと思えば、いくらでも悪用できる。広告書き込みはいくらでもできるし、誹謗中傷、ねつ造も簡単だ。
Web2.0以前の常識では、こうしたシステムがうまくいくとは思えなかった。私にとって初めてのWeb2.0的サービスのWikipediaを見た時には、かなり驚いたものだ。
現在そうしたサービスでは、少数の悪意に対し、多数の善意によって一定のクオリティを保っているわけだが、このバランスはサービスによって異なるし、刻々と変化する。一度、悪意が優位となれば、サービスが崩壊することもありうる。
ネット上のサービスに限らず、善意で成立する社会において、悪意の存在はあらゆる点で自由を制限する。たとえば、建物のセキュリティを強化することで、善意の人間に不要な面倒をかけさせ、行動を制限し、コストの一部を負担させてしまう。世界中の国の軍事費が不要になれば、どれだけ豊かになるか考えてみてもいい。
まあ、現実的には善意の者が受ける制限と、悪意の者から受ける被害とのバランスをとってシステムを構築するしかないのだろうが、顔も見えない不躾な人たちのせいでこんな苦労をせねばならないというのは、どうも釈然としないところがある。
スパム業者はこんなことどうでもいいんだろうが、全くどうにかならんものか。
昨日、原付のスパークプラグを交換した。モーターサイクルをいじくるのは初めてだったので、不安だったが、問題なく作業を終えた。一発でエンジンがかかるのは気持ちいい。
私のように、それほどバイクに興味のない人の多くは、エンジンがかからなくなったら、まあ、バイク屋に持って行くのが普通だろう。そのほうがラクだし、安全だ。自転車のタイヤがパンクしたときなんかも、自分で修理する人は結構少ないらしい。
でも、私はこうしたちょっとした修理を自分でやるのが好きだ。安くすむとか、壊れたものを持って行くのが面倒とかの理由もあるが、一部でも機構を理解し、得た知識を実践するのは楽しい。
そもそも、昔から私は分解が好きだった。近所のゴミ捨て場に電化製品が落ちていれば、その場で開けてみたり、家で捨てることになったPCを分解しまくったりしていた。分解して見つけた「お気に入り」の部品は、いまだに小物入れに入っている(ベアリングの入ったのや、小さくまとまった基盤が嬉しい)。
そのうちに、ビデオデッキやレコードプレイヤ、ゲームのコントローラなんかを直すようにもなって、単なる分解よりは多少ましになった。このへんで修理が好きになってきたんだと思う。
しかし、近年、修理不可能なものが多くなってきている気がする。電子部品が多くなったということもあるが、修理を前提としない設計や体制になってきたように思えるのだ。
昔(10年くらい前?)は、電機店には修理コーナがあった。家電なんかを持ち込めば、そこで修理してもらえたものだ。最近では、メーカによる修理の窓口しかなくなっている。メーカでなければ修理(というか部品交換)ができなくなっているのだ。
私は学生時代、カシオの電子辞書を使用していたのだが、ある時、蝶番にあたる部分が折れてしまった。外装が壊れただけなので、電子辞書としては使える状態である。そこで、外装の部分だけ購入できないか、問い合わせたのだが、修理するので送って下さいの一点張り。その時は講義で毎週使っていたので、できれば修理に出したくない、と言ってもダメだった。
以前、ヤマハのキーボードの鍵が折れた時は、ヤマハに問い合わせ、該当する鍵だけを購入し、自宅で修理できたので、大体どこでもこういう対応をしてくれるのかと思っていたので、残念だった。
今後はこういうことが増えてきそうでやだなー。
久しぶりに政治関連の記事。
小沢氏が民主党首を辞した。
そのこと自体についてどうこう言うのは、自分の政治に対する関心の薄さを露呈することにしかならないと思うので、やめておく。
今回、気になったのは小沢氏のマスコミ批判とそれに対するマスコミの反応である。
今日(11/4)の記者会見で、小沢氏はかなり露骨にマスコミの報道姿勢に対して批判した。時間的にもかなりの部分をそれに当てていたし、質疑応答でも発言の端々に滲み出ていた。
しかし、それに対するマスコミの反応はどうだっただろう。
あれだけ、痛烈に批判されたなら、質疑応答で何らかの反応があるかと思ったが、関連した質問は何も出なかった。まあ、限られた質疑の時間で、他に訊くべき質問があったのは理解できる。
問題は、ネットでの報道である。
Googleニュースから7つくらいのニュースソースをチェックしたが、このマスコミ批判について触れられた記事を、遂に見つけられなかった(11/4 18時時点、全てのニュースソースを精査したわけではないが、普段は複数のニュースソースをチェックすることさえ少ない)。まだ、速報的な報道が多いとはいえ、あれだけの時間を割いて語られたことが、全く触れられていないというのはどうだ。
そもそも、私がこのニュースを知ったのは会見が終わってからである。TVでは相変わらず断片的な報道しかしていないので、会見を見ていた父から話を聞き、確認のためネットで情報を探したのだ。しかし、ネットでの報道ではマスコミ批判について全く触れられていないことに驚き、民主党ホームページからノーカットの記者会見映像(
※)を見た次第である。もし、父から話を聞いていなかったら、ここまで調べることもなかっただろうから、マスコミ批判発言の存在自体気づかなかっただろう。
日頃、情報の信頼性に常に疑問を抱くよう心がけていたが、ここまで恣意的な報道が行われているのならば、正確な情報を得るのは本当に難しい。もはや、日常的には不可能と言ってもいい。
真にジャーナリズムの発現たる報道がなされるためには、どうすればいいのだろうか。今回、民主党のホームページでノーカットの会見映像を見られたように、ネットが一つの突破口になりうるとは思うのだが。
追記:翌日(11/5)の朝刊での報道状況
まずは、小沢氏に批判されなかった2紙。
朝日新聞:マスコミ批判発言について触れず。
日本経済新聞:5面に会見での発言を全文掲載。それ以外では触れず。
以下、それ以外。
読売新聞:1面で強く批判・反論。
毎日新聞:29面で否定的に報道。
産経新聞:5面でやや否定的報道。
結構、違いが出てますね。日経の全文掲載はすばらしい姿勢だと思う。なお、掲載面は地方や版により異なる可能性があります。
追記:
「辞した」って書いたけど、戻ってきましたね。なんだかなあ。
辞職会見後の民主党の人たちの反応が的外れに思えたのは私だけか?
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